親の介護と付きまとう葛藤~いびつな葬儀~
京都のお墓に眠る母
秋になると紅葉がとても美しい場所で
安らかに眠ってほしいと願う
いびつな葬儀
病院で母の最期を看取ったあと、頼んだ覚えもない葬儀社から連絡があった。
何も考えたくない私には、ただ煩わしいものではあったが、誰かがやらなくてはならないこの状況には、必要だったのだと思う。
葬儀には決めることが沢山ある。
規模や費用、お清めや香典返し。用意されたものの中から選ぶだけのことかもしれないが、これには身内の意見が大きく影響した。
葬儀は義父の意向もあり、ある程度の規模で行われたが、参列していただけたのは主人の身内だけだった。
誰も座っていない席だけがただ並んでる部屋で、私は母を見つめながら母を2度も殺してしまったような気持ちになっていた。
こうなることを私は事前に理解し、家族葬もしくは火葬のみで母を送りだしてあげたかったのだが、主人にさえわかってもらうことは出来なかった。
生前、終活についての話し合いをして親族間で共有しておくべきだったと後悔した。そうすれば家族葬としてあたたかく見送ってあげられたのではないかと思わずにはいられなかった。
葬儀中、ふと昔のことを思い出していた。
私の祖父の葬儀に当時3歳くらいだった長女を連れていった時のことだった。
長女が祖父の顔を見るなり
『おじいちゃん、泣いてる』
といいはじめた。
私はぎょっとしたものの
『おじいちゃん、死んでしまったのよ』
と伝えてみたが、娘は
『おじいちゃん、泣いてるよ』
と言ってそれきり何もいわなくなった。
祖父の顔を見ても穏やかな顔をしているようにしかみえなかったが、娘には感じることがあったのかもしれない。
祖父は度々介護施設を脱走していた。お見舞いに行ったときには車いすにのっていて、脱走できる状態には思えなかったが、それでも家に帰りたかったのだろうと思った。
そんなことを考えていると、きっと今母は泣いているのかもしれないと思えて苦しくなった。
母には親しくしていた友人が一人二人はいたが、認知症になってからは疎遠となっていた。
母は穏やかなひとあたりではあったので、もっと友人知人がいてもよさそうなものだったが、ご近所とのかかわりや地域のイベント、習い事などに参加しようとはしなかった。
実の兄弟も複数いたが、色々な事情もあって実質的には数年前まで同居していた弟だけが身内のようなものだった。けれど、この弟とも同居中のいざこざが原因で、決別状態となってしまっていた。
そして、実の息子である私の兄も、音信不通で連絡がとれなかったのだ。
つまり、母に近しい人たちが葬儀に参列することはなかったのだ。
母が眠る場所
母が実の弟と同居していた場所はもともと祖父が住んでいる家だった。つまり、母の実家となる場所である。マミーが小学生の頃にそこを建て直して祖父母と叔父、叔父夫婦、私たち親子の三世帯で住みはじめるようになった。
私もそこに10年お世話になったが、それぞれが築いてきた生活がある中で、調和を取ろうとすることは思ってた以上に難しかった。いつの頃からか、早くこの家を出たいと思うようになって、そこを離れてからは懐かしむことは一度もなかった。
そして、母と兄も後を追うようにその家を出ることになった。
先祖が眠るお墓も近くにあり、大晦日の夜には親子で出向いて除夜の鐘をつかせてもらったこともあった。
母はちょくちょくお墓参りにいっていたらしく、お寺の関係者の女性の事を親しみを込めて「ばあさん」と呼んでいて、この方に色々なことを教わったと話していた。
きっと母にとっては大切な場所だったのだろう。
母が亡くなってすぐに、叔父夫婦に連絡をとり納骨についての相談をしてみたが、即答で断られてしまった。断られるかもしれないと思ってはいたものの、亡くなってまで?という思いもあって、少し複雑な気持ちになっていた。
結局、母がいたい場所には入れてあげることは出来ず、京都という場所になってしまったが、娘としてはとてもありがたいことだった。
母は、徘徊していたときでさえこの地に戻ろうとしていた。それを思うと、きっと母の魂は「ばあさん」がいたあの場所に眠っているのだろう、と思わずにはいられなかった。


